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"C'set merveilleux!"
 『…ルイ・ブレリオ(一八七二〜一九三六年)は,取材中の新聞記者から感想をきかれたとき,見果てぬ夢に興奮したまま,たった一言,/「すばらしいことだ」(゛C'set merveilleux!")/とだけしか口が利けなかった.…』@

 ブレリオは,1909年にドーバー海峡を初めて横断して一躍時代の兆児となった,あのブレリオ.このセリフは,1908年にル・マンのユノディエール
Aで行なわれたライト兄弟の公開飛行を目の当たりにした時の感想だ.かろうじて飛ぶのがやっと,だった当時の仏蘭西人(と他の欧州人)たちは,兄弟の見事な飛行をあんぐり口を開けて見上げるしかなかった.
 はっきり言ってしまうと,この時代の飛行機は現在の模型ヒコーキより性能が悪かった.では,当時の模型ヒコーキがどの程度のモノだったか?というと,確かな資料が手許に無いので何とも言えない.しかし,ライト兄弟は少年時代に"Bat"と名付けた模型飛行機("planophore",仏人ペノー設計の市販品!左図)で飛行の原理を学んだというしB.また既に我国では,二宮忠八が鴉型模型飛行器Cを飛ばしていたはずだからから,モノ自体としては確立していた.
 兄弟が他のライバル達と違っていたのは,フリーフライト(自律安定型)模型ではなく,操縦できる飛行機を製作しようとしたことだ.二人がかりで操縦する,(現代風に言うと)スタントカイトの写真が残っている.続いて,腹ばいに乗って滑空するグライダーが造られた.それにエンジンを括り付けたのが1903年の“フライアー1号”だった…という手順を踏んでいた.
 『たとえば,彼らはエンジン付きの前に,グライダーで操縦飛行の訓練をした.最後の第三号グライダーでは,一ヶ月の間に千回に近い滑空を試みた.毎日とすれば,一日に三〇回ということになる.なんというみごとな根性であろう!』D
 キリスト教徒だった彼ら(父親は牧師)だから,安息日には飛ばなかったのでは?とも思う(…これは冗談だが)
 ところで,ライト兄弟が初の動力飛行に成功したのは,ノースキャライナ州キティーホークなのだが,ここは彼等がグライダーの実験の為に選んだ場所だった.選ばれた理由は単簡,強い定常風が吹く地域だったからで,気象データを入手した上で選んだのだ。
 『("Bat"を)…分解したり、組み立てたり、別に自分らで真似して作ってみたりしているうちに、原型より少し大きくすると、てんで飛ばないことが判った。尺度を倍にすれば、八倍の出力が必要である。そういうことに気がつくわけはない。しかしこの経験が後年、彼らをしてグライダーの実験に赴かしめることになった。』B
 サイズと出力の関係(つまり出力は速度だ),より大きく重いモノを宙に浮かせるには,速度すなわち空気の流れ=強い定常風が必要だ…という発想が,結局彼等の突破口になった.それにしても,彼等が暮らしていたデイトンからキティーホークまでの直線距離が約800キロだったことは,日本人からすれば驚嘆ものだ.米国は広く,しかも19世紀末の話なのだ.『なんという見事な根性であろう!…』
 『…なんでも軍備に結びつけた軍国主義のドイツですら,武装飛行機のビジョンがなかったのは不可解である.戦前に飛行機の任務として考えられたのは,偵察騎兵の代用で…/(中略)/開戦と同時に,偵察に出動した飛行機は敵機に遭遇する可能性を考えて,せいぜいピストルあるいはカービン銃を搭乗員が用意していたにすぎない.』@
 そんな状況で1914年に始まった第一時大戦だが,
 『ライト兄弟が翼に生命を与えて羽ばたかせた一九〇三年に,十三歳の少年であったフォッカーはその翼に銃を与えた.しかも,第一次世界大戦で交戦国ドイツの軍用機へ中立国オランダ市民として銃を装備したのだから,影響は複雑であった.すでにこの発端から彼にまといつく呪いを感じないわけにゆかない.最終結論的にいって,真の軍用機はフォッカーによって誕生したといえる.』@
 始めての“制御された動力飛行”からたったの10年余りで,ヒトは“空中での闘い”の火蓋を切ったのだ.愚かさの極み,と言ってしまえばそれまでだが,“命がけの攻防と儲け話”は,技術の進歩を確実に促進する.
 ところで,最初に登場したルイ・ブレリオは,ル・マンでの完敗の後どうしたのだろう?
 『ルイ・ブレリオはこの自転車的飛行機で,一九〇九年七月二十五日早朝、寝ぼけていたラタムを出し抜いて英仏海峡横断に成功した.距離約四〇キロメーロル,たった三八分の飛行であったが,ほとんど絞弁全開のエンジンは,心臓麻痺でも起しそうな状態で,シリンダも過熱しかけていたらしいが,神の恵みのスコールが襲来し雨がかかって助かったというのは,どうせ嘘であろう./(中略)/この機体はロンドン・オックスフォード街セルフブリッジの店に飾られ,一二万人のロンドン人が見物にきたというのは珍しい.イギリス人はイギリス帝國がもはや栄光ある独立を地理的に保てなくなったらしい、という大所高所的な観点から参観にきたので,そのへんのミーハー族と動機がちがっていた.』E
 そう,彼はこの飛行で人生をひっくり返した.ルマンで吐いた感嘆の台詞は,決して敗北宣言ではしなかったのだ.
 『…ブレリオXI型の功績のもう一つに,操縦装置がある.これは現在と同じように,操縦桿を前後に押し引きすれば将校だを下げ,あるいは上げ,左右に倒せば左右主翼後縁を交互に撓ませて左横ゆれ,右横ゆれを行ない,足踏み棒を左右に踏めば左片ゆれ,右片ゆれを与えるものであった./(中略)/この操縦装置は一九〇八年に特許第二一四九七号となったというが,ライト兄弟のようにうるさく告訴はしなかったらしい.』E
 後にブレリオは,有名なSPADFの経営に参画し,プロデューサーとしての才能を発揮した.結局技術者の限界内に留まり,経営者としては成功できなかったライト兄弟とは,この点で明暗を分けた.この種の例は,他の分野でも間々見られる.若くして世を去ったウィルバーと,フライアー初号機が自国に戻るのを待たずに逝ったオーヴィル.運命は,二人に過酷だったようだ.

 それにしても,ルイ・ブレリオをして「すばらしいことだ!」と言わしめたオーヴィルの飛行とは,どんなものだったのか?
 我々のヒコーキも,偶には
(できれば,仲間内ではない)誰かに,…
 
“C'est merveilleux !” 
 ,と言ってもらえればいいのだが…
(と常々思っている).            (stupidcat)

【引用文,その他について…】
@佐貫亦男著『人間航空史』中公新書/Aユノディエール…でお分かりの通り,24時間レースで有名な仏国の田舎町/B稲垣足穂著『ライト兄弟に始まる』徳間書店/C吉村昭著『茜色の空』(絶版?)に詳しい/D佐貫亦男著『ヒコーキの心』光人社文庫/E佐貫亦男著『続ヒコーキの心』光人社文庫/F最初はSPAD=ドペルデュサン飛行機会社だったが,ブレリオ参画後はSPAD=航空事業会社となった.WWTの"アース"ギンヌメールの愛機S・Z,XVなどが有名/
※参照HP⇒http://www.wrightflyer.org/

         http://www.fi.edu/flights/first/intro.html
         http://www.wam.umd.edu/~stwright/WrBr/Wrights.html
【蛇の足】…゛C'set merveilleux!"は,なんと発音するのだろう?
 強いて分けると,ハードを扱った著作は多いが,ソフトの観点で書かれた名著は少ないのではないかと思う.その意味でオススメできるのが,ヒコーキ関係では佐貫亦男さん(クルマ関係では中村良夫さん)の書かれたものだ.殊更オススメはしないが稲垣足穂大人の著作も,ヒコーキ好きなら一度は目を通していただきたい(特に「ライト兄弟に始まる」「少年愛の美学」は名著…と思う).いわゆる戦記ものなら,エース坂井三郎さんの作品がやはりオススメできる.
 佐貫先生の著書は,単にヒコーキそのものを論ずるだけでなく,関わった人間像や歴史的・地理的背景まで含んだ成り立ちを解説している点で,楽しめる.古典落語と同様,何度読んでもその度に新しい発見があるのも,優れた著作の特徴と言える.例えばここ(をクリック)にリストアップしてみたので,ご覧あれ.
【蛇の手】
 (注のBで紹介されている)ライト兄弟が“バット(蝙蝠)”と名付けた模型は,Penaud(ペノー.1850〜1880)の“Planaphore”(?プラノフォァ…か?)だ.1870年に開発され,翌年には約140m/11秒飛んだという記録ある.@オリジナルのイラスト.A最近復元されたレプリカ(翼長45cm,全長50cm,重量19g,3.2mmゴム1ループ).B最初に作られた,ゴム動力のヘリコプター.他に羽ばたき機も創っていた.Penaudは多才な人だったが,不運に見舞われ若くして世を去った(自殺だった).しかし,“Planaphore”はライト兄弟の飛行機開発のキッカケになり,歴史に名を残した.参照HP⇒http://aerostories.free.fr/precurseurs/penaud/page2.html
     @  A  B
    

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